魔界を歩こう ~京都・船岡山公園~

船岡山は、京都市北部にあり、西側には金閣寺・北方の丘陵地には鷹峯・すぐ北には大徳寺と名所旧跡が点在していてます。この山は千本通の真北、蓮台野の東に位置する標高112m、比高40mの孤立した丘陵で、山としてはすこぶる小さい。

頂上から市街を一望することができる。北西には五山の送り火で有名な大文字も目にすることができ、8月16日は人で賑わっているのでしょうね。

船岡山は平安京の北の起点

平安京造営時、朱雀大路(現・千本通り)の北の起点となり、四神相応の地として玄武が守る山だった。

 

船岡山の闇

1200年の船岡山の歴史で光があたったこともあるだろうが、私の印象では影の出来事の方が多かったように思います。

 

保元の乱の処刑場

保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇が争った戦いで、勝利したのは後白河天皇。崇徳上皇は後に怨霊となり、神様として祀ることで念を鎮めようとしたのは有名です。

後白河天皇に味方した源義朝は、父の為義や兄弟たちと敵味方となって戦った。戦いに負けた源為義たちは、後に捕らえられ、この船岡山で処刑されます。

その時、処刑したのが義朝つまり、源為義は実の子に処刑されたわけです。その恨みたるや、相当なものでしょう。

これは山頂に残る供養地蔵です。源為義らが処刑されたのを供養しているのかはわかりませんが・・・・

これは山頂にあるサイレン塔で、公園完成時のものかは定かではないが、戦前のものであるのは確か。戦時中は空襲警報を鳴らし、戦後は正午のサイレンを鳴らしていたとか。

サイレン塔から建勲神社方面に向かうとある構造物。これは当時の国旗掲揚台。正面部分が潰れされて、かつては国威宣揚的な文字が刻まれていたらしい。

これは公園内にある「ラジオ塔」。まだまだラジオが高価だった昭和初期にラジオの普及を目的として公園などに設置されたもので、格子になっている場所にラジオが設置され、人々が集まると鳴らされました。京都市内には他にこの船岡山を含め、七カ所のラジオ塔が現存している。

 

こういった戦前の面影が数多く残っていて、現在でも近所の子供たちが昼間は賑やかに遊んでいます。

かつては忌み嫌われた場所なんですが、その影の部分も多数残っています。

 

応仁の乱の戦場

中世、室町時代以降の船岡山は、応仁元年(1467)の応仁の乱に大内政弘、永正8年(1511)には細川政賢、天文22年(1553)には足利義輝らがそれぞれ陣を置いている。

応仁の乱には山名宗全の率いる西軍の拠点となり、応仁の乱後34年を経た永正8年8月には前将軍・足利義澄が入京して来たため、将軍義植は細川高国などと一時丹波に逃げ落ち延びた。軍勢を集めて入京するや船岡山に義澄軍を破るという戦いがあるなど、大変な歴史を背負った山であります。

建勲神社の参道の階段脇に建立されているもので、おそらく応仁・文明の乱か、または永正の船岡山合戦の際に討ち死にした武将のものだと思われます。ただ一切の案内書きも、ここをお参りする参道もなく、隅に追いやられているような印象を持ちました。

さらに、スクショで撮ってみるとなぜか顔認証が・・・ そしてその画像をここでアップしようと思ったのですが、何故かこの画像だけが

という表示で全く受け付けない状態。 やはり何かあるのでしょうか?

 

応仁の乱で戦い、戦死した人たちは、この船岡山に積み上げられ、その念は未だに彷徨っていても不思議ではないでしょう。

 

 

葬送の地や刑場としての船岡山

平安時代の京都には3つの大きな風葬地がありました。風葬とは遺体を埋葬せずに風にさらして風化を待つことで、平安時代は仏教の影響で身分の高い人物は火葬を行っていたそうですが、火葬には木材が必要であり庶民は最も経済的な風葬が一般的でした。

その風葬地として有名だったのが嵐山の北にある化野(あだしの)、東山の鳥辺野(とりべの)、そして船岡山の北西一帯の蓮台野でした。

船岡山公園の大きな丘、その一体が紫野と呼ばれる地区で、その中でも船岡山の北西から紙屋川にかけても地区が蓮台野と呼ばれる風葬地でした。

千本通りは、その蓮台野へ死者を運ぶ道であった為、通りに沿って千本の卒塔婆が立ち並んでいたことから、千本通りと称されるようになりました。千本通りを上ると、船岡山の手前に「閻魔前町(えんままえちょう)」という地名がある。これはあの世の入り口、閻魔様の住む場所としてつけられた地名で、閻魔前町が紫野への出口であり、平安京の入り口だったそうです。

船岡山の西側には、今でも弘法大師爪彫りの像と称する石仏などが存在するが、まさしく葬場としての昔を偲ぶにたるものではないでしょうか。

平安中期から末期に至る160余年間葬地で、明治3年に廃止になりました。

 

35年前、ここで起こった悲惨な事件(広田事件

昭和59年9月4日、京都府警・西陣署の元巡査部長・広田雅晴(当時41歳)が京都府船岡山公園をパトロール中の西陣署十二坊派出所・鹿野巡査(当時30歳)を襲い、拳銃を奪って射殺。その3時間後、大阪市のサラ金会社を襲撃し、社員の鈴木隆さん(当時23歳)を射殺、現金53万円を強奪し逃走した。

広田は、郵便局強盗で逮捕され、その5日前に出所したばかりだった。

9月5日、千葉県の実家に立ち寄ったところを逮捕された。広田は、警官現職当時からギャンブル好きで、派手な生活態度であったことから、しばしば上司から注意を受けていたという。この逆恨みが警官殺しという犯行に及んだのか、実際の動機に関しては明らかにされていない。

頂上岩盤の南側に顕彰碑があり、参詣される方も多い。

 

 

現在は憩いの場として穏やかな顔を見せている船岡山。でもその歴史は複雑で様々なものを背負ってきているのである。

昼間は穏やかでも、夜となると一変しそうである。夜になると影の部分が顔を見せるのかもしれません。


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