魔界を歩こう 〜横浜スタジアム〜

横浜は今のような大都市に発展する前は、簡素な横濱村だった。

日本は鎖国していたが、1859年開港の港として横浜が選ばれた。

横浜が港として開港することで外国人が増え、それに伴い村も賑わって、色街的な要素も必要になってくる。そこで今の横浜スタジアムがある横浜公園の場所に、港崎遊郭が作られた。

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港崎(みよざき)遊郭とは?

1859年に横浜が開港する6月2日に間に合わせるように建設されたが間に合わず、最初は別の場所で営業していた。(上の図の青いエリアが仮の営業場所)

その後、工事が進んで現在のハマスタの所に港崎遊郭の営業が開始された。

この遊郭の特徴は、外国人もお客さんとして相手にしていたこと。当時外国人相手の遊郭は長崎県の丸山遊郭のみで、丸山遊郭にはラシャメンという外国人の妾がいた。そしてこの横浜の港崎遊郭は外国人相手の遊郭として2番目の遊郭で、当然港崎遊郭にもラシャメンがいた。

当時ラシャメンは罵声を浴びせられる対象だった。ラシャメンを乗せた籠が襲われたて水をかけられたり、馬糞を投げられたりと不遇の日々を過ごしていた。

そんな港崎遊郭は1859〜1867年の間でのみの営業だった。というのも大火事による消失で400人以上の遊女が逃げ場をなくして焼死したという。

事実かどうかは不明であるが、お盆の時期になると横浜スタジアムでは、その遊女たちの浮かばれない霊が姿を現すという噂もある。

 

1867年に火事が起き遊郭は移転して営業する。しかしその矢先1872年にまたしても火事が起き、そこで新たな場所へ移転する。

移転先の高島町は開港して港と街が大きく開き始め、東海道から関内、野毛、保土ヶ谷宿へと結ぶ大きな街道でもあった。

その様々な人や荷馬車などが行き交うこの通りを岩亀横丁といい、「岩亀(がんき)」と名付けられたのは、幕府によって設けられた巨大な遊郭「岩亀楼」の存在であった。

岩亀楼は横浜港に降り立つ外国人相手の遊郭で道行く人は皆、目を奪われる巨大楼閣であった。

今も横浜公園には岩亀楼の石灯籠が残っている。

そんな岩亀横丁の一角に遊女たちが病に倒れた時に静養する寮があった。その寮内には小さなお稲荷様があり、それが「岩亀稲荷」として信仰されていた。

この「岩亀稲荷」には悲しい話が残っています。

当時、異人を相手にする女郎(唐人口)と日本人相手の女郎(日本人口)は区別されていましたが、本来日本人口である亀遊はアメリカ人の客に見初められ、身請けされることになりました。通辞(通訳)藤吉に思いを寄せていた亀遊は、その身を儚んで自殺してしまうのですが、瓦版によって攘夷女郎として祀り上げられ、「露をだにいとふ大和の女郎花(おみなえし) ふるあめりかに袖はぬらさじ」という辞世の句を詠んだということまででっち上げられます。(辞世の句は実際は吉原の遊女が詠んだとされるもの。)

その周辺の話を戯曲にしたのが『ふるあめりかに袖はぬらさじ』で、歌舞伎にもされたようです。

現在もこの話は舞台で演じられたり、現在の岩亀稲荷にポスターが貼られたりしています。

現在もこのお稲荷様を粗末にすると、世の御婦人たちに災いが起こるとか。

横浜スタジアム近辺、このような歴史があったとは想像もつかなかったですね。地元の人は知ってるでしょうけど。


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