歴代F1ドライバーズ ~初代F1チャンピオン ジュセッペ・ファリーナ

ジュゼッペ・ファリーナ Giuseppe Farina
ワールドチャンピオンシップ:1回(1950年)
グランプリ出走:34回
グランプリ優勝:5回
ポール・ポジション:5回
国籍:イタリア

 

ファリーナといえば、車好きの方ならピニンファリーナをご存知でしょう。

ジュセッペ・ファリーナは、トリノでカロッツェリア・スタビリメンティ・ファリーナを経営するジョヴァンニ・ファリーナの息子として生まれる。叔父のバッティスタ・ファリーナはピニンファリーナの創始者である。

ジュセッペ・アントニオ・「ニーノ」・ファリーナは、1906年10月30日、ニーノの父親ジョヴァンニは息子が生まれる日に、イタリアの工業都市トリノに車体修理工場「スタビリメンテ・ファリーナ」を設立。ジョヴァンニの弟もトリノに「ピニンファリーナ」を立ち上げ、その後この会社は多くの流線型スポーツカーを設計したことで有名になった。

ニーノは9歳で父親の工場で小さな車を初めて運転したことが、自動車の競技面に対する彼の興味をかきたてた。16歳になると、ニーノは大好きな叔父ピニンの乗客としてレースに参戦するようになった。三年後彼は、初めて一人で参戦するが事故を起こし、その心配な傾向は続き、キャリアを通じてクラッシュが多かった。

ファリーナは足が速く、サッカーとスキーが得意だった。トリノ大学では法律の博士号を取得して、ドットーレ・ジュセッペ・ファリーナとなった。

1932年アルファロメオを購入したが、ヒルクライムですぐにクラッシュし、肩を骨折し顔面をひどく切った。彼はそれにひるむことなく数年間マセラティでレースをして何度もクラッシュしたが将来性を発揮し、エンツォ・フェラーリの目に留まった。

フェラーリは、スクーデリア・フェラーリ・アルファロメオチームに彼を起用した。このチームでファリーナは伝説のタツィオ・ヌヴェラーリと友人になる。タツィオの後見のもと、ファリーナはドライバーとして成熟し始め、1938年には多くのレースで優勝し、イタリア・チャンピオンになった。

第二次世界大戦後、ファリーナはレースに復活し、トリノで高級なファッションブティックを経営する女性エルザ・ジアレットと結婚した。彼女の意見では、モーターレーシングはくだらない危険な活動であり、夫にレースを辞めさせようとした。しかし結婚式から3日後、彼はアルゼンチンのレースに向かった。

1950年、彼はグランプリレースのシリーズに3台のマシンを出走させるアルファロメオのリーダーに指名された。このグランプリはFIAによって組織化され、初のF1ワールドチャンピオンシップになったところだった。

非常に強力なティポ158マシンの圧倒的優位のため、最初のワールド・ドライバーズ・タイトルは、アルファロメオの3人(まとめて「スリーF」と呼ばれていた)のひとりが獲得するものと思われた。高齢のスリーFを最終順位で並べると、ファリーナ(44歳)、ファン・マニュエル・ファンジオ(39歳)、ルイジ・ファジオーリ(52歳)となる。ファリーナは史上初のF1チャンピオンシップレース、つまり1950年シルバーストンのイギリスGPで優勝し、スイスとイタリアでも優勝した。彼のチームメイト、ファンジオも3戦で優勝したが、ひどくプイライドの高いファリーナにとって、ワールドチャンピオンになったことは、彼が事実と見なしていたことを正式に確認しただけだった。

ほとんどの場合、彼は礼儀正しく魅力的で愛想がよかったが、傲慢で高飛車にもなれた。彼は、センチメンタルではない、社会的背景のない仕事仲間を認めない気取り屋であるなどと批判された。このため、アルゼンチンのひどく貧しい家庭出身のファンジオとは反目しそうなものだった。しかし、1952年イタリアGPで瀕死の重傷を負ったファンジオの病室を最初に見舞ったのはそのレースに優勝したファリーナだった。彼は倒れた戦友に優勝リースをプレゼントしたのだった。

 

その特権的背景とドライビングシートに座っていても忘れない天性の尊厳のおかげで、彼のニックネームは「トリノの紳士」だった。コックピット後方に背筋を伸ばして座るファリーナは、両手を完全に伸ばしてハンドルを握り、できるだけ動かずにスロットルを巧みに操作して静かにマシンを走らせた。その粋な技術は(ファンジオやスターリング・モスもすぐに採用した)、ファリーナのマシンを手荒に扱う傾向とは矛盾していた。回復不能なところまでマシンを攻めて何度も事故を起こしたのは、おそらく機械に対する思いやりあるいは理解が足りなかったからかもしれない。彼は、これを不運あるいは壊れやすいマシンのせいにして、決して自分の責任だとは認めなかった。ファリーナは、命拾いをしているのは幸運ではなく神への深い信仰心のおかげだと感じていた。彼は事故を起こした後は毎回聖母マリアに祈りを捧げていた。

ファンジオは「ファリーナは狂ったようにドライブするので、彼をトラックに留めておけるのは聖母マリアだけだ。我々は全員、彼女がいつか彼を助けるのにうんざりするのではないかと思っていた」と語った。(思いやりがあることで有名なわけではなかった)エンツォ・フェラーリでさえファリーナの将来を心配していた。「身も心も鋼鉄の男だった。でも彼のことを心配せずにはいられなかった。彼はひどく緊張したサラブレッドのようで、最も驚くべき愚行をやらかしていた。その結果、病室といつも親しくしていた」

(1954年モンツァでの重傷火傷も含め)負傷が増え続け、ファリーナは運命に逆らい続けるためにモルヒネと鎮痛剤を必要とするようになった。最終的に痛みがプライドを上回り、彼は1955年にレーシングから引退し、アルファロメオのディーラーとして成功した。ファリーナはドライビング能力に自信を持っていたので、F1に対する興味は続いた。1966年6月30日、彼はランスで開催されるフランスGPに向け、ロータス・コルティナに乗ってトリノを出発した。シャンベリ近くのアルプスの滑りやすいカーブで横滑りし、最初のワールドチャンピオンは命を落とした。

 

F1での最後の勝利となった1953年のドイツグランプリは、昭和天皇の名代としてエリザベス2世の戴冠式に参列するなど、6ヶ月間の欧米歴訪中だった当時19歳の皇太子明仁親王(今上天皇)が台覧していた。レース終了後の表彰台で今上天皇がファリーナを祝福し握手を交わした際の写真が通信社を介して各国に配信されており、その時の模様を伝えている。今上天皇が自動車レースを観戦したのは、この1回のみである。

 


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