中国武術家・血闘記録 ~ 華拳 蔡龍 最終章

「神拳大龍」と呼ばれたが為に難癖をつけられた挙句、親の財産を失わせるほどの迷惑をかけた蔡龍雲。

自分から仕掛けたわけではないですが、かつての武勇伝が常に彼につきまとい、何かというとちょっかいを仕掛けてくる者が後を絶ちませんでした。

その都度蔡龍雲は、《こう手の礼》つまり、右手を左拳で包み眼前に掲げる武術の礼をして、

「私の及ぶところではありません」

といって、相手に勝ちを譲り実際の勝負を避けてきました。

ただマスロフと出会って、2年半押さえつけていた武術家としての熱い想いが再び爆発しました。ただ、リング上の勝負となれば、ただの喧嘩ではありません。

蔡龍雲は父・蔡桂勤に知られずに行おうとしたのですが、マスロフ陣営が「今度こそ、勝てるぞ!」と意気込んで、あちこちにポスターを張り、大宣伝したために、観衆とマスコミが詰めかけての公開試合となりました。

 

時は1946年9月2日 上海青年拳撃場(YMCAボクシングジム) 相手はアメリカ人黒人ボクサー「黒獅子ルサール」。当時上海ヘビー級チャンピオンだったそうです。

ルールはマスロフの要求どおり、蹴り技無しの手技のみ。1R3分の5回戦。服装もボクシングスタイル。

余談ですが伝記には、リング下にいた西洋人のご婦人が蔡龍雲のからだにちょいと触って、「かわいい!」と言ったとか。

リング上に視線を戻しましょう。いよいよゴングが鳴り、ブラックライオン(黒獅子ルサール)と上海ドラゴン(蔡龍雲)の一騎打ちが始まりました。

ルサールは上体を低くしてジリジリと迫ってきた。チャンピオンだけあって、全く隙がない。ルサールが左右のパンチで連打してきた。

蔡龍雲はかろうじて両手で顔面を守った。「虎抱頭」という技だ。

フックにジャブにストレート、蔡龍雲の腕に当たった鈍い音が会場に響きました。第1ラウンドはほとんど蔡龍雲は押されっ放しだった。反撃に出ようとしたところで時間切れです。

コーナーに帰るとセコンドについてた兄弟子が言った。

「体力は向こうが上だ。正面から打ち合うと消耗するぞ。相手の攻撃を見切って懐に入り込むんだ」

蔡龍雲の華拳は、間合いの遠い攻撃を得意とし、少林長拳と呼ばれてるが、ここであえて間合いの近い短打で挑むことにしました。

第2ラウンド、スピードのある、しかも重いパンチで激しく攻めるブラックライオン。だが、蔡龍雲は持ち前の鋭い反射神経でパンチを見切り、果敢に反撃を始めた。懐に飛び込んでは打ち出す蔡龍雲のパンチがしだいに効き目をあらわした。

このとき蔡龍雲は特殊な攻撃をブラックライオンの胸に加えていた。39年後に雑誌のインタビューでそのときの様子を語っているので紹介します。

「ルサールは上体を倒し、低い姿勢から左右のフックを打ってくるパワーファイターです。私は『着肉分槍、貼身近攻』の戦法を生かして、ギリギリでルサールのパンチを見切りました。外から打ってくるフックを、私は内からはねるようにして受けると同時に、もう一方の手でルサールの胸を打つのです。拳の部分だけでなく、グローブの内側の掌の部分でも胸をたたきました。極めて短い間合いでは、パンチは打ちにくいものですが、掌撃による攻めは、逆に効果を発揮します」

いわゆる寸勁ですね。

寸勁とは、一寸の距離からでも力を発して打ち込むもの。ルサールが攻めようとすると、機先を制して蔡龍雲が飛び込む。次第にルサールは防戦一方になってきた。

第4ラウンドも同様、残すところあと1ラウンド。焦ったルサールがこの一撃でと、大きく踏み込んで激しく右フックを打ち込んできました。

今だ❗️ 蔡龍雲は真正面から飛び込んでいった。前手で上段をカバーしつつ、蔡龍雲は肘を締め、右拳をすくうようにルサールのボディに打ち込んだ。型どおりの黒虎掏心である。

一瞬、二人のからだが止まりました。でも次の瞬間、ルサールの全身から力が抜けて、崩れるようにリングに沈みました。

ただ、レフリーがカウントを数えようとしたらゴングが鳴った。ルサールは這うようにコーナーに戻りました。

1分の休憩後、第5ラウンド開始のゴングが鳴ったとき、相手側からタオルが投げ込まれ、TKO勝ちとなりました。

観戦にきていた有名な書道家が後日、みごとな筆跡で蔡龍雲の勝利を讃える一編の詩を送りました。しかし残念ながら、1960年代末期、文化大革命中に破り棄てられたそうです。

でも蔡龍雲がその詩を記憶していました。

 

少林の拳撃、世に勝るものなし

動くこと迅速にして、静まれば定まり力温蔵す

蔡君これを得て強者を制したり

柔はついに柔にあらず、剛もまた剛にあらず

剛は先ず折れ、柔は強に転ずるのみ

これぞ東方の妙術

技と道と合することかくの如く

一洗す東亜病夫の恥を

 

「東亜病夫」とは「アジアの病人」という意味。中国はかつて「アジアの病大国」と呼ばれたこともあった。国際政治に翻弄され、内には内戦が続き、当時今尚中国の命運が定まらぬ混乱のなかで、蔡龍雲の放った一撃が中国人の心を鼓舞したのだった。それを「一洗す東亜病夫の恥を」と詠んだのです。

一人のスポーツ英雄が民衆の心を揺さぶるというのは、今でもよく見受けられます。当時の中国では蔡龍雲もその一人だったんですね。


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