気功についての考察⑤(現代気功編)

前回までは、古代に関する気功についての歴史や経緯について述べてきました。

前回でも述べているように、「気功」というのは、中華人民共和国成立後の中国共産党によって、分類整理され、今日に至っていると。000d87ad601308f6c5a102tiananmen2

このことは言い換えると、共産党にとって都合の悪い「気功」的なものは、排除されたともいえるわけです。特に武術的に危険なものはそうではないかと思います。

21世紀に入ってから中国気功は『健身気功』以外輸出されなくなっているという。古いもの、危ないものとして捨てられ、輸出禁止になってしまった。「健身気功」が、共産党政府公認の「国定教科書」であると。

60年前に、この現代『気功』の歴史は始まりました。ではそれを見ていきましょう。

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時は1947年、戦争で日本が敗れて国共内戦たけなわだった時期の紅軍兵士・劉貴珍が、呼吸器の疾患で戦列を離れたところから話は始まる。同志たちはもう劉とは会えないと思った。 しかし、数年後彼は戻ってきました。

故郷に帰ってはみたが病院も医者もいない。劉貴珍は道士劉渡舟を訪ねて教えを乞いました。道士が教えたのは吐納法。彼はそれを習い、それで病気を克服し戦線に復帰しました。奇跡が起きたと大騒ぎになりました。

その話が党中央に伝わり、中華人民共和国成立後、自己療法の研究が始まることになります。それが気功療法という名称になります。今日、気功のメッカといわれる北戴河は、劉貴珍が院長を勤めた気功療養院にちなんでいます。201452222539317

なぜ新政府はそんな研究を始めさせたのでしょう?

1932年の満州事変以来、中国本土は戦火にさらされ続けました。日本軍に蹂躙され、日本軍が敗退した後も内戦で殺し合いが続きました。17年間の戦争で、国土は荒廃し人々は健康を害し、貧しく、人心はすさみきってしまいました。5000万人が死んだと言われています。当時の人口は4億人。その8人に1人が死んだことになります。病気や怪我に苦しんでいる人は数知れませんでした。

そんな中、共産党の統治が始まった。しかし、マイナスからの出発で、建物はあっても医師も薬もない病院。何もなくて患者に希望を与えられるとしたら、それは鍼灸医学と伝統の中から産み出された気功でした。

気功は、つまり病院における補完医療として始まったのです。はじめは、呼吸法(内養功)だけ、それから少しずつレパートリーが広がり、入院患者で試され、少しずつ気功は病院だけでなく、人民の間で評判になっていきます。

1956年、革命政権が樹立されてから6年目のこと、この年は北戴河気功療養院が設立された年ですが、その一方、百花斉放、百家争鳴の文化運動が発動され、気功もブレイクします。諸家に伝わる治療法や体術が気功として認知されることになりました。

しかし、それは翌年には弾圧の対象となり、市井の多くの気功家が投獄されてしまいます。反右翼闘争です。その弾圧をテコに大躍進という経済改造事業が発動されました。ところが、この急激な社会主義社会の建設計画は3600万人もの餓死者を出して失敗に終わり、毛沢東は政権を投げ出してしまいました。

そこで1960年から66年まで、劉少奇と鄧小平が実権を握り、毛沢東の失敗の後始末をすることになりました。00080286e07a0a9d8a5001

この時期は産業をはじめ各界に専門家を養成する事業が盛んでした。医療の分野でも専門学校が設立されて、気功医師や鍼灸医師の養成が行われ、巷間では古典気功の復刻がさかんに行われ、公園気功が見られるようになりました。

しかし1966年になると毛沢東はプロレタリア文化大革命を発動し、田舎のチンピラを煽動動員して社会主義の旗の下、巻き返しに打ってでます。

そえから10年もの間、人民同士が無意味な闘争に駆り立てられ、反目しあうことになった。死者は1000万人に及びました。市井の気功家はもちろん、病院勤めの気功医師たちも地方に差し向けられるなど、大弾圧を被ることになりました。

 気功は宗教と迷信の隠れ蓑とみなされたからでした。

我々が指導を仰いだほとんどの先生方もこの時期悲惨な経験をしております。実際、この動乱の10年間は気功どころではなかったそうです。

この弾圧の嵐をかいくぐるように支持されたのが郭林女史の歩行気功でした。郭林は1971年ころから党中央に取り入って気功を認知させることに成功しました。josiMasterGuolin

「これまでの宗教の粉がまぶされた気功とは違う、ガンを克服できる科学的なものだ。今度のは新気功だよ」と。51xvYRv0rUL

1976年に文化大革命が終わると、さまざまな分野で復権が始まり、気功も復活し始めます。ただ、二度も痛い目にあってきた気功家たちは慎重でした。太極拳をアレンジしたものや、医療に有益な体操に近いもの、すでに復刻されて評価が安定しているものを「革命を成功に導くためには有益だ」と標榜しつつ小出しにしながら少しずつ声を大きくしていきました。

文革のほとぼりが冷めた1980年代も半ばになると、もう大丈夫とばかり、さまざまな創作気功が競うように発表されるようになり、保健効果があると能書きをつけて気功と称すれば自由に普及できると踏んで、かなり宗教風味の利いた気功も盛んに発表されはじめました。病院では気功の効果をはっきり示せる外気治療が、気功の主役に躍り出ることになった。1985年ころからは、大学病院の気功医師を海外に派遣しはじめました。

1985年ころというのは日本に気功が紹介されはじめた時期と重なっていたので、このブームはそのまま日本でブレイクしました。(日本の気功の経緯については次回)

中国の気功ブームは、変貌する社会、変質する共産主義への不安、不満、そして抑圧された政治的自由の代償であった。それゆえ、社会的な暴走とも言える熱狂を伴っていました。またそれは政治が気功を政治的手段の一つとして利用したともいえなくはないが・・・

カリスマ的な気功師が開く「報告気功」の集会には、各地で何千人もの大衆が押し掛けました。中でも、法輪功は1990年代後半に大衆が動員され、地方都市を呑み込むような勢いになりました。falun-dafa-vs-red-china

1999年に法輪功が弾圧され、全国規模の気功団体は解散、省単位で登録制のみが許可されることになった。監視され統制された気功団体などに庶民はもう寄り付くことはありませんでした。いや、そんな中で気功をすることは、権力に公然と刃向う意志の表明と見られる可能性がありました。

医療の一翼を担い、一大ブームを作り、庶民の健康を支えてきた気功を、完全に廃棄することは悲しいことです。そこで、気功を病院医療体制に組み込む医療気功と、体育局の管理下に置く庶民の健康のための健身気功を作って二つに分断し、統制することにしたのです。

健身気功は大学や病院の研究者や医師らがチームを組んで古典気功を編集しなおした固定テキストです。20090821175502

それが『六字訣』『五禽戯』『八段錦』『易筋経』です。ただ膨大なエネルギーを費やして作られた健身気功ですが、人民の間にはさっぱり流行りません。気功が封印されてた間に都市の経済は倍以上に成長し、庶民の所得も倍増しました。時代はもう気功を必要としなくなっていたのです。gokingi

そこで、諸外国から武術や太極拳の研修にくる人たちに速成で教え込んで、輸出するようなことをしています。これでは本物が絶えてしまいますね。

本物は医療でも実績をあげていますし、武術的にも本物は存在してるのも事実です。そんなデータも今後載せてみようと思います。

 

次回は、日本に渡ってきた気功について述べようとおもいます。実はこれがオカルトであったり、史上最悪の宗教事件へと少なからず影響を与えたことだとも言えるとおもいます。それではまた(^-^)


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