健康な身体があってこそ「習拳一得(王薌齊先生)」続き

至於一般的運動,有的失於激烈損害身體,有的失於偏頗而促成局部發達,因此在生理上本有欠缺的人不習運動尚可在日常生活中自然得其復元,一經運動反受殘害,致使疾病加深,甚或生命夭折。每見著名運動家和運動成績優良的青年,而研究學術課程反多落後,這都是運動不當所發生的各種不正常現象。至於過去拳術名家老手,也有因違背生理而頓足努力、老年癱瘓下痿者,凡此種種,都是與運動生理所背馳。要知研究學術,不貴墨守成規,更忌抱殘守缺,重在體認與創造,但需要根據原則與事實,繼續不斷地求創造,然需切實再切實。所以良好的運動必能發揮其具體聰明,與讀書足以增長知識而能致用之理並無二致。所以運動無論如何不能過激。再若詳細分析現在的運動,都是以青年為物件,而忽略了40歲以上的壯年人和老年人。實際上惟有40歲以上的人學識充足經驗豐富,能在國家社會中擔當重要任務。忽略了這些人的正常運動,就是忽略了這些人的健康,對國家是極大的損失。以運動的原理來講,靜敬虛切是習運動的要訣,同時還要渾大深憨的精神來培植。如運動時不許閉氣,心臟搏動不許失常,橫膈膜不許稍緊,都要常識豐富的人,方易體驗。到60歲以後的人,若求技擊深造似不太易,欲求身心健康則並非難事。 學習運動不外大致三個目的:(1)求衛生使身體健康;(2)講自衛;(3)尋理趣。

 

一般に行われている運動のなかには、体をひどく損なうものもあれば、体の局部を発達させるためのものもある。そのため、生理的に欠陥がある人は、運動してはならず、日常生活のなかで自然な回復を待つことである。運動をすればするほど、かえって体を損ない、病がひどくなることもあるし、ひどいときには命を失うこともある。
また有名なスポーツ選手やスポーツの成績が優秀な青年が、学術の面では遅れをとっているという現象があるが、いずれも運動が適当でないために生じた不正常な現象である。
昔の有名かつ老練な拳術家は生理に悖った運動をしていたため、老年期に入ってから半身不随になったり、インポテンツになったりした。これらはすべて運動の生理に悖っていたからである。
学術の研究にさいしては、既成のきまりをかたくなに守って、改めようとせず、さらに間違いをそのまま受け継いではならない。そうした意味から体験や創造は大切である。ただし原則と事実にもとづいて、たえず創意工夫することである。

良好な運動は頭の働きをよくし、読書によって知識を増やし、さらに活用できるようになるという道理と同じである。そのため、運動は決して過激であってはならない。さらに詳しく分析すれば、現在おこなわれている運動は青年を対象としたものであり、四十歳以上の中年や老人をおろそかにしている。四十歳以上の人は学識も広く、豊かな経験をもっており、国家や社会に対して重要な仕事にたずさわっている。そうした人びとの適切な運動をおろそかにするということは、つまりその人たちの健康をおろそかにしているということになる。それは国家にとっても大きな損失である。

運動の原理からいえば、静、敬、虚、切は運動のポイントであって、同時に大切なことは、大らかな気持ちを持つことである。運動にさいしては息をこらさず、正常な心臓の拍動を保ち、横隔膜をいささかも緊張させてはならないが、これらは豊かな常識を有している人にとって体験しやすいことである。六十歳以上の人にとっては技撃を深く学ぼうとしても容易なことではないが、心身の健康を求めることは難しいことではない。
運動にはおおむね三つの目的がある。
一、健康な体をつくること。
二、自衛のため。
三、趣味として、である。
そのなかで、体を健康にすることはもっとも容易なことである。全身を自然で爽快な状態にして力を抜き、水中に横たわっている状態や空中で眠っている状態をイメージできるようになれば、すでに半ば成功したようなものである。
人に誇示しようとして、わざとらしく装えば、神経にさわり、いたずらに時間を無駄にするだけである。さらに激しい運動をすれば、健康を損ない、寿命にも影響をもたらす。

運動は体を健康にするためのもので、さらに一歩進めていえば自衛にも役立つ。自衛とは、不意に襲われたときに拳で打ったり、足で蹴ったりして敵を倒すことである。もし、その道に熟達すれば、言葉では到底形容できないような妙味を味わうことができる。
ただし、自衛と健康は切り離すことのできない関係がある。自衛をするからには、まず体が健康でなければならず、ついで体や手が敏捷に動き、人より力が強く、さらに巧妙な手段を持っていなければ、思うような自衛はできない。だが、力を増そうとするには力を使ってはならない。力を使えば却って力が出なくなる。体や手の動きを敏捷にするには、鍛錬にさいして、動かないのがもっともよい。もしもそれでは無味乾燥だとか、煩わしいと思うならば、幾分動いてもよいが、動くときは動いているようで、動いておらず、動いていないようで動いている、動きが止まっているようで止まっていてはならない、ということを知らねばならない。たとえ動いていても、動の形跡があってはならないのである。

要するに精神的な意味は深く、形の上で動いてはならず、形の上での動きであれば、形はあっても力は分散する。わざとらしい動きをすれば、力は分散する。であるから、動作はゆっくりと動くほどに効果がある。そのようにすれば、次第に四肢百骸、各種の細胞の活動がどのようなものであるかを会得することが可能となる。これは動について学ぶ条件である。もしもスピード感のある美観を求めて、敏捷さを表現しようとするならば、逆の効果をまねき、希望をなくしてしまう。
巧妙な方法をもって、敵を制しようとするならば、さらにいかなる方法もとってはならない。もしも人工的な方法を取り入れれば、さまざまに変化する本能の玄妙さをすべて捨て去ってしまうであろう。

この種の運動は極く簡単で、一目瞭然、効果もきわめて良好である。頭を使わず、気力を使わず、わざわざ時間をつくる必要もなく、ただ生活の上で良い習慣をつけさえすれば効果があり、心身にもよい。もしもさまざまな手法を用いて強さを誇示しようとするならば、すべてを失ってしまうであろう。
この種の運動は簡単ではあるが、飛びきり聡明な人でも、学べば学ぶほどに難しくなり、生涯学び、鍛錬に苦心したとしても是非を見極めることができなくなる。宇宙の平常は非常であることを知らねばならず、平常を捨てて非常を学ぶならば、迷路をさまようことになる。

この種の運動についての原理と趣意は無尽で、複雑きわまりないものであるから、簡単に述べることはできないが、以下、原理について、一、二の例をあげて紹介する。同好の研究と討議を心から願っている。
たとえば、動静、虚実、遅速、弛緩・緊張、進退、反側(反対と斜め)、縦横、高低、争歛(争いと拘束)、遒放(力を込めると放つ)、鼓蘯(内気は体の中に)、開合、伸縮、抑揚、提頓(上げると押さえる)、呑吐、陰陽、斜正(斜めと真っ直ぐ)、長短、大小、剛柔などは、いずれも矛盾を孕みながらも互いに統一している。熟達した者は初心にもどって、初めから学ばなければならない。これらのすべては切り離すことができず、切り離してしまえば、永遠にこの種の運動の真髄を認識することはできない。
この種の運動において、弛緩は即ち緊張であり、緊張は即ち弛緩であって、両者は偏ってはならない。実は即ち虚であり、虚は即ち実であって、両者のなかでバランスを取らなければならない。横、縦、撑、抱は互いに依頼しあっており、打、顧、鑚、閃は同時に使わなければならない。

以上は、力を得たいと思っている初心者を対象にして述べたものであるが、もしこの種の規範を学ばないとすれば、生涯鍛錬しても何も身につけることはできない。この種の規範を堅く守って学べば、一生学んでも尽きるところを知らない。試力、運力、発力、蓄力および、有形、無形のさまざまな仮借の力量に至っては、あまりにも複雑であるから、ここでは省略するが、徐々に研究しながら力をつけてはゆかなければ容易に会得することはできない。その実、身につけてしまえさえすれば、平凡であって何も難しいことはない。
というのは、これは一種の親しみやすい技である。しかし、一法が分からなければ、すべてが分からない。拳学の規則を死守することなく、万物の運動にのっとって進めれば、さほど月日をかけずとも分かるようになる。
拳学の道とは、一拳、一蹴をいうのでも、打ったり、捉えたりするのをいうのでもなく、さらに套路を指していうのでもない。拳学の道とは、拳の原則を身につけ、守り抜いて、一つ一つの動作をすることにある。

拳を学ぶ目的は主として健康のためであって、ついで自衛のためである。拳術を身に付ければ、医術では治せなかったさまざまな病人が短期間に健康をとりもどせるし、働く者は働いても老いにくく、労働力を失った者も働くことが可能になる。これが即ち拳術の価値であり、運動することは休息であり、休息のための運動であるといえるのではないか。
また自衛は技撃の形を変えた学問であり、一般人が想像しているように、この手はこう使い、あの手はああ使うというようなものではない。技撃は決して複雑なものではないが、そうかといって簡単きわまるものでもない。
まず大切なのは修養であり、心身を養ったうえで、試力、発力の鍛錬に進み、段取りを追って学んでこそ、次第に技撃の研究に入れるのである。さもなければ何も分からないままで終わってしまうであろう。

要するに修養にさいしては、まず信条と四容、八要から入るとよい。
信条とは、年長者を敬い、幼い者をかばい、信義、仁愛、知勇、深厚、果断、堅忍であり、四容とは、頭を真っ直ぐに正し、目は正面を見て、精神は厳かに、声は静かに発することを指していう。ハ要とは静、敬、虚、切、恭、慎、意、和を指していう。
以上の条件がそなわって始めて体の鍛錬が可能となる。そして、まず椿法からはいり、同時に関節と筋肉のコントロールおよび単双重の弛緩と緊張の利用について研究する。
単双重とは両手、両足の重量だけを指していうのではなく、頭、手、体、足、肩、肘、膝、寛骨および大小の関節など四肢百骸の小さな力点において、すべて単双重、弛緩と緊張、虚実、軽重の区別があることをいうのである。
撑三、抱七、前四、後六は互いに組み合わせを変えながら用いる。これは筆墨では簡単に形容できないものである。総じていえば、抽象的なものから入って実際におこなうものであって、それをごく手短に述べたまでである。
試力についていえば、力に関しての名称はすこぶる多く、すべてを列挙するのは難しい。力は試してこそ初めて分かるものであって、知って初めて用いることが可能となる。いかなる力の練習といえども、形が崩れていてはならず、意識しながらも明確なイメージを持ってはならず、力をどの方向かに向けて出してはならない。力に方向があれば、その力は限りあるものとなり、局部的な偏ったものとなる。
そのさいの動作は平板で、力を低下させ、そのうえ、引き続き散乱させてつかみどころがない。もし人と技くらべをすれば硬直する。試力は仮想でおこなう。仮想は無形であり、精神的なもので、永遠に継続する功法であり、波のように力が続くことでもある。拳学という学術はいずれも空から会得したものであり、有形であれば力が分散し、無形であれば精神が集中する。精神的な意識は充実させなければならず、形を似せることを求めてはならない。

発力とは、力の効果を発動することを指していい、そのためには基本となる鍛錬がなくてはならない。力学に関してのさまざまな知識があり、大気の力に応じ、大気と呼応できてこそ、初めて波型の弛緩と緊張を利用することができるのである。
発力とは撃ち出したかどうかを重視するのではない。撃ち出したかどうか、命中したかどうかは、自分が発動した力量が前後、左右、上下のバランスがとれているかどうか、螺旋形の交錯した力と、波のように続く力があるかどうか、軽快で正確なうえ、遅い中にもスピードのある惰性の力であるかどうか、本能的に発動したかどうか、期せずして目的に達した力であるかどうかを見るのである。
以上の条件をそなえて初めて、拳を学ぶ希望がもてるのであって、それが身につくかどうかは、また別の話である。

王 薌齋

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これを読むと、自分のやっている武術が生きる上でも素晴らしくプラスに働いていることが、改めてわかりました。

一生ものの武術ですね。


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