極限状況での人間の心身

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少林寺には、最高の悟りの状態、完全な心になるための修行方法として「大閉関(だいひかん)」というのがあるそうです。
大閉関とは、一定の期間締め切った部屋の中で坐禅・断食を行ない外に出ないというもので、日本でも比叡山延暦寺で千日回峰行の最後に九日間の断食・断水・不眠・不臥の「堂入り」を行なうそうですが、少林寺の大閉関は100日間の坐禅と28日間の断食を行ないます。

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実際に大閉関を行った方の記述された文献によると

《 断食・断水》
1日目からすぐ断食を行わず少しずつ減らしていき、5日目からは飲まず食わず。
空腹であることを意識しないように心掛けても、寺の精進料理や饅頭が頭に浮かんできて、水も飲まないために唇はとても硬く舌も摩擦を感じ、唾液なども出てこなくなる。

《身体の状態》
運動しないので新陳代謝は減っていき、身体はだんだんそれに順応していく。最初は強い空腹とダルさを感じ、頭痛、無力感、脱力感が出てくる。息遣いは荒くなり吸う音がよく聞こえ、お腹が空になっているために呼吸は深くなる。
少しずつ身体が鳥のような感覚になっていき、皮膚が涼しさを感じはじめる。呼吸はだんだん荒いものからゆっくりと穏やかなものになっていく。
身体は熱くなり風邪の症状ような状態になっていくが、これは身体のエネルギー調節であるみたいである。
その後、まるで冬眠しているように身体は徐々に冷えてくる。外界との気の出入りが強くなり、特に丹田から臍のところに気が入る感覚が強く感じるようになる。
気功を行ないながら一週間くらい経つと、腹部の前と後ろが同じになる感じで感覚がなくなり、食べたい気持ちもなくなっていく。13日目からは、限界量のごく少量の水のみを口に含む。

何の変化もない暗がりの中では心の中の会話のみである。
一般的には、そんな状況では退屈になり何かをしたい気持ちになります。さらに日が経つと自分自身が嫌になり、世の中も嫌になり、生きていることの意味や人生の楽しみを感じられなくなっていく。そして身体がだんだんと辛くなっていく。
こんな状態にこそ、自分に忍耐力が備わっているかどうかが分かる。
ある人は自殺したくなるかもしれない。
その心の問題を気功で身体内部の世界を心地良くして、逆に楽しいという感覚に変えていく。

《経絡や気の流れが見える》
第2週には肉体の変化が起きる。丹田のエネルギーはより強くなり、塊になり熱くなる。全身がとても熱くなってくると経絡の中を流れる何かを感じられるようになる。

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人間の一番基本的な欲は食欲。28日間食べないで過ごすことは人間の世界から外れることであり、自分の欲望を乗せる肉体の存在が完全になくなり意識と精神のみが残った状態である。
ただ精霊、魂だけが生きている感覚で、宇宙の中に存在するエネルギーや、人間の本性、禅の状態が現れてくる。
人の肉体と精神の欲求は社会生活と関連している。例えば、武術ならもっと強くなるために練習する。エネルギーが必要なので食べる。休息が必要なので寝る。便利なもの、美味しいものを求める、文化や芸術に親しむなど、人としての生活の充実とはあくまでそういうもの。
100日間の大閉関、28日間の断食をすることで自分を支配している本質的なものを感じることができるようになる。
違った見方をすると、ああしたい、こうしたい、という欲は自分の本質的ものを感じるには邪魔な存在といえる。
この修行では、その瞬間に肉体を無くし本来の魂あるいは宇宙のものと繋がれるようになり、自分の意識の世界が変わります。
今の世の中はデジタル社会であり、何事も速いレスポンスでかえってくることが多い。調べものをするならインターネットで素早く調べられ、車にのればカーナビが案内してくれる。
便利な世の中である。夜も灯がともり、都会なら不自由なく出歩くことも出来る。
しかし、便利さは人間本来の動物としての野生的な防衛本能を衰えさせている。
カーナビに頼ったドライブは、それがないと東西南北も見当がつかず自分がどこにいるのかもわからなくなる。
明るさになれていると、本当の暗がりでは目が効かなくなり辺りを見渡すことができにくくなる。
便利さをそろそろ控えないと、人は本質的な力を失ってしまうかもしれません。
そういった意味では比叡山延暦寺や少林寺の修行は、人の心と身体を蘇らせる貴重な修行といえるかもしれません。


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