闘いの氣を具現化した伝説の巨人 澤井健一 ②

投稿者:

image

 
【”武”と”氣”の求道の日々】

「クソッ!もう一度」
手を伸ばす。今度はガッチリと相手の襟を掴むことできた。引きつけようとした。
引きつけて地面に思いっきり叩きつけてやろうと動いたのだが、相手の身体は田んぼを這うような低い姿勢で投げづらい。
では、そのまま寝技に持ち込もうと考えたが、その瞬間にはスルリと身体をかわされていた。

澤井は目の前に立っている老人を見つめなおした。身体は小さい。その上、皮と肉が骨に垂れ下がっているような細い腕であった。幼少から柔道、剣道で鍛え、それなりの自信を持っていた澤井である。
柔道は磯貝一、徳三宝、三船久蔵といったそうそうたるメンバーに習い、先輩には牛島辰熊、曽根一蔵という強豪がひしめき合っていた。段位も5段、中国に渡ってからも幾人もの武術家と立ち会ったが遅れをとることは皆無だった。にもかかわらず、この老武術家 ー 王向斎に対しては一本を取ることはおろか、まともに組むことさえできなかった。
この時、王向斎65歳、澤井健一28歳である。

かなわないならば、教えを乞うしかない。澤井の”氣”を求道する姿勢と考え方はシンプルであった。しかし、第二次世界大戦に向かって世界が暗転していたこの時代。しかも、中国大陸を占領下におかんとする日本軍侵攻の状況下で日本人が中国人に弟子入りするなど当時の常識からは大きく逸脱した行為であった。
image

また、王向斎も”国手”と呼ばれる名声以上に「弟子を取らない変わり者」として知られていたこともあって、澤井の入門はなかなか許しがでなかった。やっと許しが出たのは1週間も通いつめた後のことだったという。
稽古は立つことから始まった。太氣拳では「立禅」、意拳や気功では「站椿功」と呼ばれるが、これをひたすら行うことから始まった。
後々、澤井は弟子たちに、その時のことをこう述懐している。
「こんなことだけで本当に強くなるのか、1年ぐらいは迷ったものだ。しかし、実際に王先生は強いし、兄弟子たちも続けているのだから、やらない訳にはいかない。それに一度、頭を下げて教えていただいたからには、武士としてやめられないじゃないか」
言葉のハンデもあった。時代の背景もあった。ただ、澤井にとって幸運だったのは王向斎門下で唯一の外国人ということで、何かと王向斎との立ち合いが多かったことだったかもしれない。

image

王向斎と澤井の立ち合いは稽古の域を越えていた。澤井が「こういう技にはどう対処するのですか」と訊ねれば王向斎は「打ってこい」と応える。気がつけば、素手から、王向斎が片手に5尺の槍を持ち、澤井は剣道用竹刀を持って立ち合っているということもしばしばであった。
そんな命懸けの修行が中断されたのは日本の敗戦によってであった。
澤井は”日本人”として自刃を覚悟していたところを王向斎に諭され、日本への帰国を決意する。日本の地を踏んだのは昭和22年、この時、澤井は王向斎に太氣拳を創始する許しを得ている。国全体が自暴自棄になっていた時代に、澤井は太氣拳の修行に明け暮れた。
武道家との交流も積極的に行った節もある。後に極真会館総裁となる大山倍達や大東流柔術の吉田氏との関係が密になったのもこの頃のことであろう。
また、違う意味での交流…即ち、道場破りに近い立ち合いも行っていたようだ。
そんなある日、王向斎先生の言われたのは、これか!…という感覚を味わったという。それは、一体、どのようなものだったのか。聞くところによると澤井は”氣”という言葉の前に”気分”という言葉をよく使っていたという。
「人間は気分がいいか悪いかで生活そのものが大きく変化してしまう。ちょっとでも気分が悪いと何もする気が起きなくなり怠惰な生活を送ってしまうが、楽しいときや何か良いことがあったときは多少の障害があっても楽な気持ちで取り込むことができるものだ。 太氣拳では、この気分を作り出すことが第一であり、それを作り出してくれるのが自然である。気分が入れば、技の速さも、力も倍になる。相手の動きも素早く見抜くことさえできる。普段の自分ではできないような技も可能となる。
相手との立ち合いで気が出るか出ないかはその次の問題であり、まず気分を入れる稽古だけに専念していただきたい」
澤井はこと武術に関してはリアリストであり続けた武人であった。
ゆえに太氣拳というものを端的に言い表そうとした結果、それが”気分”と”氣”の武術というものに表現された。
ただ、全ての人間が”気分”を入れただけで武術として強くなれるわけではなかったようだが…
IMG_0162

というわけで本日はここまで。
次回に続きます。


返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA