意拳・于永年老師に聞く⑧最終章

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【王向斎老師の学説とは?】
本ではなく、王老師が生前語り、我々に教えたことだ。遺稿としては『拳道中枢』と『大成拳論』があるが、これらに記されている内容にしても、練習を経て一定のレベルに達していないと理解できない。『拳道中枢』の記述などは字面を見ても何も分からない。

例えば「離開己身、無物可求、執著己身、永無是処」という記述はどういう意味か。「己の身体を離れては求め得る物はなく、己の身体にとらわれてはいずれ落ち着く場所はない」。これは矛盾した内容で、まず身体という枠の中で「物」を得ようとする。しかし身体を離れ、外界に「物」を求める。どのように「物」を求めるのか具体的には語られていない。しかし、ここには大原則が示されているのだ。
私はこの一文で語られた内容を次のように分析した。
站椿における興奮性意念を鬆緊、連接、屯筋、牽挂の四種に大別する。意念による身体の活動対象は、この四段階を経るうち身体内部から外部へ向いてゆくのだ。
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鬆緊: 放鬆と緊張を行う。

連接: 複数の筋肉間を関係づけ、協調して動作させる

屯筋: 二ヶ所以上の筋肉を協調して動作させ、身体で「物」の存在を表現できる状態をつくる。

牽挂: 外界のもの、例えば樹や建造物と自分の身体の間で引いたり推したりする力を想定する。

このように身体内部における放鬆と緊張の訓練から、外界に存在するものへと意念の対象を変えてゆく。これは重要な段階であり、一つも疎かにできないが、王老師はこのような段階について詳しくは述べなかった。

【王向斎老師の真伝を継ぐ弟子は最終的に何名いるのだろうか?】
王老師に学んだ者は数えきれない。しかし、本当の意味で高い水準に達したものは幾人もいない。
名前を挙げるならば、天津の趙道新。ただこの人物は後に「心会掌」を名乗り、別の道を歩み始めた。尤彭煕の技も相当なものだった。しかし「空勁」というものを創始したため、これも別の方向に向かってしまった。趙道新、尤彭煕は非常に有名だが、技の面では姚宗勲がやはり素晴らしかった。
彼は最後に「意拳」という名称を堅持したため、「大成拳」か「意拳」かという議論の種を次の世代に残してしまったが、技の面では姚宗勲は正統派と呼ぶに値する。彼は王老師が教えた内容を改編することなく次の世代に伝えた。
【王老師の真伝を于氏は次にどう伝えるのか】
私の役割は、医学と理論面から站椿を解説することだ。私は殴り合いや喧嘩はできない。
王老師は「医者の仕事は病気を治すことだ。人を殴る必要はない」と私に語ったことがある。拳術に関する書籍は数多く出版されているが、大半が推手や実際の動作を中心としたもので、站椿の理論を十分に語ってはいない。だから私は理論的にこれを解釈し、第二随意運動を始めとする説を提唱したのだ。
また私は、菅氏や老子と站椿の関係についても言及している。二千七百年以前から伝わる菅氏や老子には、站椿に係る記述を見つけることができる。菅氏には「毋先物動、以観其則、動則失位、静乃自得」という下りがある。
私はこれを「” 物 ” を会得するまで動かず、以て(身体内部の)規律の変化を観よ。動いてしまうと” 物 ” はあるべき位を失う。静かに立つうち、” 物 ” は自ずと得られる」と解釈している。また、老子(第二十五章)には「独立不改」、黄帝内経(第一篇)には「独立守神」との記述があり、これが站椿を指す。実際は站椿だけならば誰でもできる。しかし站椿を通じて「物」を得ることは簡単ではない。
【日本の練習者に対してのメッセージ】
大成拳を修得するには、まずその道理を認識することが重要だ。道理を理解して初めて練習の効果が上がり、更なる向上も望める。
例えばまず三つの相対関係をよく認識した上で練習する必要がある。

⑴ 静と動
⑵ 上半身と下半身
⑶ 形と意の関係

站椿は表面的に静止状態にあっても一種の運動であり、しかも酸素欠乏に陥ることがない優れた運動であること。

上・下半身の関係においては上半身(手腕)よりも下半身(足腰)の鍛錬を優先すべきこと。最近では手の動きが練習の中心となり、脚の重要性が軽視されている場合か多いが、実際は脚の役割が非常に重要だ。
形と意の関係においては、「形」と「意」の練習のバランスをとること。
特に第三点については、近年「意」を重視するあまり、却って「形」を疎かにしている練習者が多い。最近ではよく意拳の名で呼ばれるようになったが、意に対する要求が高まった反面、形が疎かにされつつあるようだ。この点は見直す必要があるだろう。
外見上昨日と同じものを練習しても、練習の内容は日々変化し、難度はより高いものへと向かわなければ質の変化は望めない。静の状態の訓練は動く訓練より難しく、脚の訓練は腕の訓練より難しいが、常に難度が高い方を選択し練習するのだ。

もう一つは力の養成の問題だ。澤井氏は王向斎老師と試合をした時、腕を軽く打たれると電撃が走ったように感じたと述べている。軽く打たれても電撃のように感じたものとは何か?それは站椿で培われた力、即ち全身の筋肉を瞬間的に統一することで発揮される高速の勁と下半身の力なのだ。
練習者はこれらの道理、原則を理解した上で、訓練の方法を絶えず改善してゆくことが必要だ。
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(1995年2月6日于永年宅にて)
この当時、私は空手に情熱を燃やしていて、空手に活かせる”不思議な東洋武術”の認識でしか意拳や太氣拳を捉えていなかった。数年後その本当の良さを認識し、日々稽古をするにつれて、よりこの武術の奥深さを体感するようになった。
今、私自身は東洋医学で治療する鍼灸師であり、于永年老師が中医学の医師であったので、当時は目に留まらなかった記事が今になって理解し重要なことを載せていたのだと気づくこととなった。
当時の私は、まだまだ ” その程度のレベル “だったんでしょうね。
そして、今以上に10年後は” それ以上のレベル “になっているはずである。
ただし、日々チャレンジし自分自身を磨いてる場合に限りである。

 

 


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