意拳・于永年老師に聞く⑦

投稿者:

image

 

【休息筋を使用する第二随意運動は、どのように練習するのか】
説明するよりも、実際にやってみれば案外難しくないものだ。例えば私はこうして椅子に座っているが、この状態でもこのような練習が可能だ。
(于氏はスネに手を触れさせ、例として緊張・弛緩を交互に繰り返す鍛練法を行なった。氏は今年75歳(1995年当時)だが、日常の鍛練のためか脚は丸太のように頑強に感じられた)。

工作筋の鍛練は体力を増強する。ここに意念の要素を付け加え、休息筋も鍛練すれば智力を向上させる効果も期待できる。
例えば試合をして勝つためには、力を出す強弱、その方向、力を使う点、その距離の長短などを瞬時に判断しなければならない。これらを把握できる能力を基礎として、一瞬の発力で相手を弾き飛ばすような技が可能となる。ただ馬鹿力を出してもどうしようもない。だから大成拳において智力(思考力)を開発することは重要な条件なのだ。

黄帝内経には「独立守神、肌肉若一」という記載がある。この「独立守神」は站椿に相当し、この訓練を経て、人体の全ての筋肉が「若一」となる。つまり一つの塊のごとく統一され、力を発揮することを表現している。
【王老師は第二随意運動、試力、発力などをどのように説明していたのか】
王老師は「物」という言葉で表現していた。これは老子に記述のある「物」の概念に通じる。
「物」は「有形の物」と「無形の物」に大別でき、「有形の物」としては例えば太陽、惑星、山、河、海、動植物など自然界の物、また建築物など人類の創造物がある。これらは「外物」とも呼び得る。
これに対して「無形の物」は見るに見えず、聴くに聴けないが確かに存在するもので、主観的に感じたり客観的に表現することができる。これを私は「内物」と名付けた。

image
(試力の動作を見せて)例えばこの動きを見ると、目の前の空間にまるで何かが存在し、それを推したり引いたりしているように見える。このような動きを体現できなければ「物を造る」ことはできない。
「無形の物を造ることができなければ駄目だ」と言っていた。
「物」は気功練習者にとっての「氣」に相当する。武術練習者にとっては「勁」に相当し、「勁を聴く」とか「勁を理解する」という「勁」がこれに当たる。
武術という範疇に限れば王老師以外で「物」という表現を用いた流派はない。また「物」は広い意味では「道」でもある。「物」は具体的な概念であるのに対し、「道」とは更に抽象的なものだ。

【王老師の站椿の詳細な説明はどのようなものだったか】
王老師はいつも「立っていろ」と言うだけだった。「ある程度まで立っていればそのうち分かる」と言うのだ。
老師は中南海の庭の樹を指差し、「あの樹はなぜあんなに太いか分かるか?」とか、
「あの樹はなぜ細い?」と聞く。そして「何年も立っている樹は太くなり、年季を経ない樹は細いのだ」と言った。
樹齢千年にも達する中山公園の樹が太いのは当然だ。人間と植物を安易に比較できないだろうと当時は思った。
しかし次第に飲み込めてきた。站椿を長く続ければ中身が変わってくる。外から見て分からなくとも、内容は変化してゆくのだ。王老師は多くを語りはしなかったので、学ぶ者個々人がこれを体得するしかなかったのだ。
例えばこんなことを覚えている。中南海の王老師宅の庭で練習するとき、1時間ほど站椿して大量に汗をかいても非常に爽快だった。ところが自宅に戻って站椿をしてもあまり気持ち良くない。そこで、
「王老師の庭で練習すると気持ち良いのに、自分の家に戻って練習すると気持ち良くないのですか?」
と尋ねてみた。王老師は何も言わず煙草を吸いながら辺り行ったり来たりしていたが、やがてこう言った。
「赤ん坊は母親に抱かれていると泣かないが、ベッドに寝かされると泣き出すだろう」
この話の意味は暫く分からなかったが、やがて私にもその意味が分かった。赤ん坊が母親に抱かれていると泣かないのは、母親が背中を叩いたりあやしてくれて気持ち良いからだ。そしてベッドの上に寝かされると泣くのは、自分の置かれる状態が快適でないということだ。
長時間站椿を続けると身体が強張ってくる。王老師のもとで練習するとき、老師は口に出して注意はしないが、ポンポンと叩いたり腕を一度降ろさせたりして緊張をほぐし、姿勢を直してくれる。老師の話はこの状況の例えだった。
だから私は、まず王老師の学説を理解することが重要だと考えている。

image


返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA