意拳・于永年老師に聞く③

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私(于永年老師)が王老師に学び始めたのは1944年のことだ。それ以前は身体が弱かったので養生のために太極拳を学んでいた。太極拳、形意拳、八卦掌を一通り学んだが、太極拳の先生が
「太極拳の修業は時間がかかる。大成拳を学ぶといい。あれは”革命的拳術”だ」
と私に勧めた。当時若かった私には、”革命的拳術”とはどういう意味かよく分からなかった。やがて私は、王向斎老師と同郷の医者の紹介で老師に教えてもらえるようになった。当時王老師は五十数歳だった。

大成拳や意拳という名称について様々な意見があり、論争されてきた。この点につき、王向斎老師が四十年代に記した「大成拳論」には以下のような記述がある。
「この拳術は二十年代、一度意拳と名乗ったことがある。”意”の字によって意感と精神の意味を表す」

二十年代は、王老師がまだ上海に居た時代だ。そして四十年代、老師が北京で教えていた頃、張壁が大成拳という名を王老師に贈った。中国武術の精華を結集したという意味で、この一件は当時新聞でも報道された。
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しかし、その後どうなったかと言うと、王老師はこのどちらの名前にも満足できず、「意拳」、「大成拳」のどちらの名称も否定し、1947年労働文化宮に「中国拳学研究会」を設立した。従って意拳、大成拳は最終的に「中国拳学」という名称に落ち着いたというのが私の見解だ。残念ながらこの研究会の当時の写真が見つからないが、私自身がこの研究会の発起人の一人なので間違いない。
なお、北京には当時「中国拳学研究会」と「北京拳学研究会」が存在したが、「北京拳学研究会」はまだ成立していない。

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だから王老師は、学生に教える際にも「中国拳学」という名称を用いたが、一般には大成拳の名で通っていた。意拳という名称が再び使われるようになったのには次のような事情がある。

北京では80年代中頃に姚宗勲が国家体育運動委員会(体育、スポーツを管轄する中国政府の機関)が設けた特別学習班に拳術を教えた。このとき姚宗勲は意拳という名を用いている。
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また、南方に下った韓星橋と韓星垣の兄弟が、意拳の名称を使って教えていたことも影響した。韓星橋は現在広東省珠海におり(2004年没)、その弟の韓星垣は49年以後、香港に渡りそこでこの拳術を教え始めた。韓星橋は当初、組織の名前を「大成拳社」としたが、やがて意拳に改めた。

一方、北京では大成拳に対するイメージが悪化していた。まず、姚宗勲のグループが、そして解放後には王選傑が度々喧嘩をしていたからだ。乱闘の規模は新聞に載るほどで、大成拳と言えば喧嘩を好むヤクザな武術というイメージが定着してしまった。そのため、姚宗勲も大成拳の名前を使いたがらなかった。

意拳という呼び名が急速に広まったのは、香港との往来が解禁された85年以後だ。香港との行き来が始まってから、香港では意拳と呼ばれていたことが知られ、また王向斎老師が「意拳正軌」という本を残していたこともその頃分かった。王老師は生前、この本について少しも触れたことがなかったためだ。

この問題には結論はない。私自身は大成拳と呼んでいるが、呼びたいように呼べば良いと私は考えている。しかし歴史は説明した通りで今更変えることはできない。王向斎老師が47年に設立した研究会の名称を「意拳研究会」であったと主張する者がいるが、これは事実の歪曲だ。
諸説では王老師は送られた大成拳の名を「ふさわしくない」と返上し意拳と名乗ったという話を聞くが、私が1944年に王向斎老師に学び始めた当時にはこの拳術は大成拳と呼ばれており、王老師は意拳という名称では呼ばなかった。

④に続く


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